Monday, July 20, 2020

安楽死について真剣に考えたこと

らーが倒れてから、たびたび起こった排尿障害、ひどいときは48時間もオシッコが出ない、お腹はバスケットボールのようにパンパンに膨らんだ。

圧迫導尿が効かない、家庭でのカテーテル導尿がうまくできない、そういう状態が頻発し、らーが一点を見つめて悲しい咆哮をあげるとき、わたしは安楽死を考えた。

膀胱炎を経験したことがある人は想像してみてほしい、抗生剤を服用して数時間から半日もすれば多少ラクになってくる、でももしも抗生剤が手元にないとしたら、果たしてあなたは耐えられるだろうか? 悲観せずに水を飲み続けて、自力で改善できると楽観できるだろうか?

らーの場合は、それよりもはるかに苦しい状態になっていた。明らかな膀胱の炎症、腎臓機能の低下、それでも膀胱そのものの伸縮が自力でできない、24時間体制の病院がないから入院は意味がそれほどない、通院には人手が必要、往診もすぐにはかなわない。

本当に苦しかった。らーと一緒に痛みも苦しみもない場所に行きたいと思った。

安楽死、尊厳死、違いは、安楽死は積極的に死に向かわせ、尊厳死は、望まない延命をしないという選択だったか。わたしはらーの代わりに、らーの命を積極的に終わらせる安楽死を選ぼうとした。

ところが、主治医が「まだまだ」「まだまだ」そして「まだまだ」という。
やれることがまだあるんだと、まだ耐え難い苦しみでもないのだという。

「じゃ、先生、この先、耐え難いほどの苦しみを経験させて、それからなら、死なせてあげられるんですか」と、わたしは主治医にも食って罹る勢いだった。

主治医をおいてほかに、どこの獣医師が、突然に安楽死を依頼されて引き受けるというのか? まったく絶望だった。そんな安楽死を受けてくれる医師を探すのに費やす時間があるわけがない。

恐怖を感じた。孤独だった。


そして後になって思えば、安楽死は必要なかった。

らーが穏やかに旅立った、その時になってやっと、安楽死が必要ないことだった、そう思うことができた。

苦しんでいるらーと二人きりの夜、わたしは、「安楽死という選択が今そこに確実にある」という安心感がほしかった。

そのうえで、まだやれることがある、まだがんばれる、そういうことならば、あれほどの恐怖ではなかったはずだから。 

August 2010
He loved our tiny garden